大阪の陣について考える  

豊臣秀吉が死んだあと豊臣政権として、勢力を伸ばしつつあった徳川家康は1600年に関が原の戦いに勝利すると、西に勢力をのばした。そして、戦後処理においてのさまざまな実権を握ることになる。そして豊臣家の所領などを次々に処分していった。1603年 征夷大将軍に就任すると江戸幕府を開き 江戸城をきづき、着々と権力を掌握していくようになる。そして、圧倒的な権力と武力によって、すべてを支配下としていくよういなるのである。1614年になると、ある事件が勃発する。後に 方広寺鐘銘事件といわれる事件がおこる。この事件については、後に口実をむりやり当て込んだ、画策として、歴史的にはとどめているが、実際のことについては、いまだなぞのままとされている。1614年豊臣軍は戦争に対する準備をすすめていく。それは秀吉のきづいた、莫大な資産を原資とし、全国から兵をあつめた。しかし、豊臣軍は二つにわかれまとまりがなく、戦況は、徳川幕府軍が優位に動く。6万人の兵を率いた徳川軍は、江戸を出発し、20万の軍勢で 包囲する。カノン砲などの装備した、徳川軍が優勢で戦況をすすめる。そして、大阪城の堀をうめるという大胆な戦略を使うのである。そして和平を成立させるのであるが、水面下では戦争準備を着々と進めていくのであった。そして、戦力的にもすべてにおいて勝っていた徳川軍が勝利し大阪城は陥落へと向かうのであった。